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流されてくるものに、魂を差し出さない。ーインプットを選ぶことは、人生を選ぶことー



高校を卒業した頃から、テレビを受動的に見ることをやめた。

つける時は決まって、観たい洋画がある時だけ。WOWOWに加入し、目的のある視聴だけを選んでいた。


何かが適当に流れていること。

それを「見せられている」と感じる感覚が、どうしても好きになれなかった。


気づけば、それから30年以上が経っている。

その姿勢は、一度も変わっていない。



あなたが今見ているものは、あなたが選んだものだろうか。


それとも、ただ流れてきたものだろうか。







テレビに代わるように、私はパソコンと向き合うようになった。

まだ一般家庭にインターネットが当たり前ではなかった頃のことだ。


自分の意思で情報にアクセスできるという感覚は、新鮮だった。

紙媒体やテレビでは得られなかったものに、自ら辿り着くことができる。

その能動性に、心が震えた。


一方的に与えられるのではなく、自分から取りに行く。

その違いは、私にとって本質的なものだった。


だから、SNSに違和感を覚え始めたのも、自然な流れだったのかもしれない。


Facebookを始めた頃は、サロンを運営していたこともあり、人とのつながりを深めるための有効な手段だと感じていた。

Twitterでつながった人がイギリスまで会いに来てくれたこともあったし、そこからクライアントになってくれた人もいた。


確かに、意味のある出会いは存在していた。


それでも、見たくもない誰かの日常や、関心のない情報が、次々と視界に入り込んでくる。

選んでいないものまで受け取らされる状態に、私は少しずつ疲れていった。


イギリスへ渡るタイミングで、すべてを一新したくなった。

2013年、Facebookを含め、すべてのSNSを削除した。


それから10年以上が経った。


去年、noteとX、そしてInstagramを再開した。

Instagramについては、昔から「向いている」と言われてきた。写真を撮ることが好きだからだ。

実際、イギリスに滞在していた頃にも一度試したことがある。


けれど、その時も続かなかった。


今回も同じだった。


好きな海外インテリアのアカウントをフォローする。

最初は、それだけのつもりだった。


しかし、ふと気になって開いた投稿をきっかけに、リールが途切れることなく流れ始める。

YouTubeのショート動画でも同じことは起きる。けれど、Instagramには、どこか別の質感があった。


「すごいでしょう」と語りかけてくるような空気。

比較と競争が前提となっているような、濃密なエネルギー。


それは、私の内側を静かに消耗させていった。


周りは言う。


「Instagramはおしゃれで、有益な情報が得られる」


多くの人が、当たり前のようにそこに存在している。

アカウントを持つことが、前提であるかのように。


けれど、立ち止まって問いかけてみる。


「みんなやっているから」は、本当に理由になるのだろうか。


誰かの当たり前が、私の当たり前である必要はない。


「当たり前」という言葉が現れたとき、

それが誰の基準なのかを見つめること。


私は、その問いの前に立ち続け、

何度向き合おうとしても、消えない違和感を認めた。


「私には、合わない」のだと。


世間の基準に合わせて留まり続けることよりも、

見ないことで守られる自分の静けさのほうが、大切だった。



これは、SNSを否定しているわけではない。

そこに価値を見出している人を否定するつもりもない。


ただ、自分が受け取るものは、自分で選びたい。

それだけのことだ。


流されてくるものに、魂を差し出さないために。


インプットを選ぶことは、人生を選ぶことだから。



続けることだけが誠実さではない。

手放すこともまた、自分への誠実さのひとつだ。





あなたが今、受け取っているものは、あなたが選んだものだろうか。


それとも、ただ流れてきたものだろうか。



そして——


あなたがまだ手放せずにいるものは、


本当に必要なものだろうか。



それとも——


流されてくるものに、


ただ魂を預けてしまっているだけなのだろうか。




 
 
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