流されてくるものに、魂を差し出さない。ーインプットを選ぶことは、人生を選ぶことー
- Sara Mizuki

- 2月28日
- 読了時間: 4分
高校を卒業した頃から、テレビを受動的に見ることをやめた。
つける時は決まって、観たい洋画がある時だけ。WOWOWに加入し、目的のある視聴だけを選んでいた。
何かが適当に流れていること。
それを「見せられている」と感じる感覚が、どうしても好きになれなかった。
気づけば、それから30年以上が経っている。
その姿勢は、一度も変わっていない。
あなたが今見ているものは、あなたが選んだものだろうか。
それとも、ただ流れてきたものだろうか。

テレビに代わるように、私はパソコンと向き合うようになった。
まだ一般家庭にインターネットが当たり前ではなかった頃のことだ。
自分の意思で情報にアクセスできるという感覚は、新鮮だった。
紙媒体やテレビでは得られなかったものに、自ら辿り着くことができる。
その能動性に、心が震えた。
一方的に与えられるのではなく、自分から取りに行く。
その違いは、私にとって本質的なものだった。
だから、SNSに違和感を覚え始めたのも、自然な流れだったのかもしれない。
Facebookを始めた頃は、サロンを運営していたこともあり、人とのつながりを深めるための有効な手段だと感じていた。
Twitterでつながった人がイギリスまで会いに来てくれたこともあったし、そこからクライアントになってくれた人もいた。
確かに、意味のある出会いは存在していた。
それでも、見たくもない誰かの日常や、関心のない情報が、次々と視界に入り込んでくる。
選んでいないものまで受け取らされる状態に、私は少しずつ疲れていった。
イギリスへ渡るタイミングで、すべてを一新したくなった。
2013年、Facebookを含め、すべてのSNSを削除した。
それから10年以上が経った。
去年、noteとX、そしてInstagramを再開した。
Instagramについては、昔から「向いている」と言われてきた。写真を撮ることが好きだからだ。
実際、イギリスに滞在していた頃にも一度試したことがある。
けれど、その時も続かなかった。
今回も同じだった。
好きな海外インテリアのアカウントをフォローする。
最初は、それだけのつもりだった。
しかし、ふと気になって開いた投稿をきっかけに、リールが途切れることなく流れ始める。
YouTubeのショート動画でも同じことは起きる。けれど、Instagramには、どこか別の質感があった。
「すごいでしょう」と語りかけてくるような空気。
比較と競争が前提となっているような、濃密なエネルギー。
それは、私の内側を静かに消耗させていった。
周りは言う。
「Instagramはおしゃれで、有益な情報が得られる」
多くの人が、当たり前のようにそこに存在している。
アカウントを持つことが、前提であるかのように。
けれど、立ち止まって問いかけてみる。
「みんなやっているから」は、本当に理由になるのだろうか。
誰かの当たり前が、私の当たり前である必要はない。
「当たり前」という言葉が現れたとき、
それが誰の基準なのかを見つめること。
私は、その問いの前に立ち続け、
何度向き合おうとしても、消えない違和感を認めた。
「私には、合わない」のだと。
世間の基準に合わせて留まり続けることよりも、
見ないことで守られる自分の静けさのほうが、大切だった。
これは、SNSを否定しているわけではない。
そこに価値を見出している人を否定するつもりもない。
ただ、自分が受け取るものは、自分で選びたい。
それだけのことだ。
流されてくるものに、魂を差し出さないために。
インプットを選ぶことは、人生を選ぶことだから。
続けることだけが誠実さではない。
手放すこともまた、自分への誠実さのひとつだ。
あなたが今、受け取っているものは、あなたが選んだものだろうか。
それとも、ただ流れてきたものだろうか。
そして——
あなたがまだ手放せずにいるものは、
本当に必要なものだろうか。
それとも——
流されてくるものに、
ただ魂を預けてしまっているだけなのだろうか。

